第5回 サルトルとアンガージュマンの思想

《連載:コミュニケーション思想の先駆者たち 第1回》

ジャン・ポール・サルトルという人物を知ったのは、高校3年生の時だ。

それ以前に「サルトル」という不思議な名前を聞いたことはあったのだろうが、この人が戦後思想の「巨人」であることを認識していたわけではない。

2年生で世界史を教えて下さった関勇先生が、3年生では倫理社会を担当された。
「現代思想」の単元で、関先生はご自分で作ったガリ版刷りの資料を使い、教科書ではほんの少ししか触れていない現代の思想家や哲学者について、コンパクトかつ印象的な解説をして下さった。

関先生はサルトルの「サ」を強く高く発音されたが、それは世間のやり方と違うので、われわれ生徒は、その度になんだか落ち着かない気持になったものだ。

「アンガージュマン」という言葉もその時に教わった。

人間は歴史や世界にとらわれていると同時に歴史や世界を変える自由を持っている。ひとつひとつの行動は否応なく、ある特定の思想への加担とならざるをえない。人間は世界で起こるあらゆることに責任があり、そのことに自覚的でなければならない。分かりやすく言えば、特定の異性と結婚するのは一夫一婦制という「制度」に加担することなのである!

最初に読んだサルトルの著作は『実存主義とは何か』。
そこに出てくる最初の命題は「実存は本質に先立つ」というものである。

ペーパーナイフを作る職人にはペーパーナイフという概念(本質)がまず先にあり、それに従って現実のペーパーナイフ(実存)を作る、しかし、人間の場合は――神がいないとすれば――あらかじめ人間の本質を定める者はどこにもいない。人間はまず現実に存在し、自分で自分の本質を定めていかなければならない。だから実存が本質に先行し、「アンガージュマン」とは重い意味を持つのだ...

サルトルの考え方には少々無理があった、という意見がある。
われわれが世界で起こるあらゆることに責任があるというのは原理的には否定できないが、そうなると責任は無限大になり、責任をとること自体が無意味になっていくのではないか、という意見である。

その通りだと思う。
しかし、僕は、コミュニケーションという行為の奥底には、何か「アンガージュマン」が潜んでいなくてはならないとも考えている。

おしゃべりに興じる十代の少女でも、ピッチの上でパスを送り合うサッカー選手でも、はたまたプロジェクトの遅れを取り戻そうと喧々囂々の会議でも、そこに何がしかの「アンガージュマン」がなければ、人は高揚や緊張感を見出せない。

サルトル自身は、晩年にいたって、よれよれになってもアンガージュマン・スタイルを貫いた。フランスの人たちはそれをちゃんと覚えていて、彼の葬儀の日、沿道には5万人がつめかけたそうだ。

かつて関先生のお宅で夕食をご馳走になった折、先生はこうおっしゃった。

「団結して戦うぞ、みたいなのが苦手なんだよ。そういう場面に出っくわすと思わずうつむいてしまうんだ。人間はさ、ひとりひとりで責任を取っていかなくちゃいかんでしょ。それを団結とか連帯とかでごまかそうとするのは好きじゃないんだな」

振り返ってみれば、これは市井の実存主義者の言葉である。