◆なぜいまインナーコミュニケーションなのか
インナーコミュニケーションは幅の広い概念だが、ここでは企業と社員が信頼関係を創り出すためのコミュニケーション活動として定義しておこう。
インナーコミュニケーションが静かな注目を集めているのは二つの要因がある。一つ目は、企業の組織や文化がかつてないほどに疲労し、求心力を失っているという現実。90年代から続いた業績の低迷、厳しいリストラ、安易な成果主義の導入などが社員の拭い難い不信感を引き起こしているため、内部の結束をもう一度固める必要が出てきている。二つ目は、グローバル経済の進展の中で日本企業の国際的競争力が低下し、従来の事業のやり方では付加価値が創り出せなくなってきたという現実。企業は「選択と集中」に加えて、知識サービスやソリューションなど新しい事業のやり方を編み出さなければならなくなっており、この変革の意義を社内に伝え、士気を高めることが求められている。
インナーコミュニケーションへの期待はこの二つの要因から高まってきたのである。
◇企業と社員の信頼関係を再構築する
再結束であれ変革であれ、その前提には企業と社員の信頼関係が求められる。ただし、注意すべきは、かつて日本企業が拠り所にしてきた家族主義的な信頼関係はもう望むべくもないということだ。今、求められているのは、企業と社員が相互に依存しながら、同時に相互に選択しあうような信頼関係である。
もちろん、企業は社員の個人力に依存し、社員は企業の組織力に依存する。しかし、もう一方で企業は自社の行く方向やそのための戦略をきちんと社員に伝えて、同意を求める必要があるし、社員は方向性や戦略を吟味した上で、自社とともに歩むかどうかを選ばなければならない。厳しい言い方をすれば、企業も社員も自社の将来に対して、それぞれの立場と意志でコミットすることが求められるようになったのである。
多くの企業では、この「選び選ばれる関係」が成立していないために企業と社員のもたれ合いが発生している。加えて、激しい環境変化への対応は意識のギャップや組織のひずみなどのリスク要因を生み出しやすくなっている。企業は信頼関係を「創り直す」ために、正確で分かりやすい経営情報を社内に開示し、企業と社員がお互いの「つもり」を照らし合わす機会を創り出していかなければならなくなってきた。
インナーコミュニケーションとは、経営と社員がまず「同じ行き先のバス」に乗ることを相互に確認し合い、さらに両者がそのつど方向性をチェックし合う道具立てなのである。
◇競争力を高めるインナーブランディング
企業と社員の信頼関係の再構築は、企業ブランドにも重要な意義を持っている。
企業ブランドは単にシンボルマークやロゴタイプではなく、企業が顧客に対して自社の商品やその提供プロセスなどの品質を請合う約束であり、その約束が果たされたことによって生まれる信頼関係である。最近の不祥事が企業に与えた深刻なダメージは、約束違反に対する顧客の厳しい制裁だった。
この企業ブランドの根底にあるものは企業と社員の信頼関係である。企業と顧客をはじめとする外部ステークホルダーとの信頼関係(アウターブランド)は、企業と社員という内部ステークホルダーとの信頼関係(インナーブランド)によって支えられている。
高いブランド価値は、優れた商品の開発・製造力とそれを顧客に送り届ける提供力にかかっているが、実は開発・製造・提供プロセスを支える社内の人間の技術力・知識力・組織力などの成果である。彼ら一人ひとりが自社に対する信頼を持って業務に取り組んでいなければ、どんな企業ブランド戦略も無効だ。インナーコミュニケーションは、企業と社員の信頼関係の再構築を通して企業ブランドを高めるインナーブランディング活動なのである。
では、インナーブランディングを実現するにはどうしたら良いのだろうか?
優れたブランディングがすべてそうであるように、インナーブランディングにも高い理念とそれを追求する変革活動が必要である。
この間、劇的な回復や成長によってブランド価値を高めた企業は、それぞれのユニークな方法でインナーブランディングを実現している。日産自動車のカルロス・ゴーン社長も松下電器産業の中村邦夫社長もキヤノンの御手洗冨士夫社長も、確固たる理念に基づき、卓越した対話力で現場を鼓舞し、信頼関係を築き直してきた。どの事例を見ても、現状の否定と脱却を促す強い変革の意志がある。
私は、インナーブランディングとは実は経営者と社員が共通の理念を目指して現状を変えていくtransformationによってしか実現できないと考えている。現状肯定的な理念やたやすい目標では獲得しうる信頼関係の質は知れているからだ。ただし、現状否定を含む運動であれば、社内には既存のやり方を変えたがらない「抵抗勢力」も生まれてくる。従来のインナーコミュニケーションがどちらかというと社内の融和を旨とするものであったのと対照的に、インナーブランディングを本質とする新しいインナーコミュニケーションは、抵抗や対立にも重要なテーマとして取り組む変革のコミュニケーションなのだ。
◆インナーコミュニケーションはトップと社員が出会い直す「場」
〔事例紹介:アイ・ティ・フロンティア〕
◇アイ・ティ・フロンティアで何が始まったのか?
2004年3月17日午後6時半、湾岸の夜景を見下ろすアイ・ティ・フロンティアの会議室には、仕事の区切りをつけた社員が数十名集まっていた。ここは、同社の井上準二社長が主催する対話集会J Talkの会場だ。若手・中堅の社員に混じって年輩の社員もやや硬い表情で社長の登場を待っている。
その日は、4月からスタートする新中期経営計画がはじめて井上社長から発表されることになっていた。それは新しい経営戦略を様々な社内改革の施策とともに盛り込んだ計画で、この日、経営委員会で決定されたばかりのものだった。
やや遅れて現われた井上社長は、「この会社を良い会社にしていくには、日常の業務が未来の価値創造につながるような仕組みを組織の中にビルドインしていかなくてはならない」と語り始めた。約1時間半、新しいビジョン「人と技術が生きる価値創造企業」の紹介に始まり、環境分析、競合分析、過去3年間の総括、どのような顧客にどのような価値を提供するかという戦略の骨子、人事、ワークスタイル、ブランド構築のためのコミュニケーション戦略まで、計画の全体像が語られた。いつもなら職制を通じて現場に伝えられる経営計画が、このようにトップから直接伝えられるのははじめてのことだった。
◇トップを中心に方向感を共有し、危機感を醸成する
アイ・ティ・フロンティアは、2001年に三菱商事系のIT企業5社が統合し、三菱商事と日本アイ・ビー・エムが出資して設立された。1,650人の社員を擁する中堅のITサービス企業で、ERP(基幹系システム)やアウトソーシング分野では定評がある。しかし、中長期的にはシステム構築と製品販売を中心とする現在の業態には課題が見えていた。また、統合から3年経過した現在でも、社員の一体感は万全とは言い難かった。03年6月、新社長に就任した井上準二氏はこの事態を重く見て、慎重に同社の変革を準備し始めた。
この頃、井上氏は「社員のポテンシャルはかなり高いのに、それが十分に発揮されていないのは方向感が共有されていないからだ。『一つのアイ・ティ・フロンティア』を再構築したい」と決意を表明した。
井上氏には強烈な危機意識もあった。ITサービス業界には、中国勢などのオフショアの脅威、システム構築の部品化の脅威という二つの脅威が迫っており、これに対する危機意識を共有した上で手を打っていかなければ、自社を緩慢な自殺に追い込むことは目に見えていたからだ。
◇対話の「場」を創り出し、トップが直接語りかける
方向感を統一し、危機意識を醸成するにあたって、トップがどうしても語らねばならないのは、どんな企業にしていくのかというビジョンである。井上氏は、顧客価値の創造を通して社員価値・株主価値を実現する「価値創造企業」を打ち出し、03年10月末、8,000字に及ぶメッセージをイントラネットで発信した。その冒頭は「コミュニケーション宣言」と銘打たれ、自身のメッセージをめぐって全社で議論を起こしていくことを求めていた。
引き続いて始まったのが、社長と社員が直接語り合う「場」づくりだ。変革にはトップの声や表情が伝わる対話が不可欠なことは言うまでもない。過密スケジュールをやり繰りして、J's Barと J Talkという2種類の対話集会が始まった。J's Barは小人数の飲食も交えた談論風発の会、J Talkは50〜60人規模の意見交換会で、Jは社長の名前の準二に由来している。この対話集会は、あるべき自社像や人材像、経営戦略や事業戦略などをテーマに月に2回のペースで続き、地方拠点のみならず、麻布温泉の宴会場へも繰り出した。最初は身構えていた社員も、少しずつ井上流の「カジュアルで真剣な議論」に慣れてきたように見える。
◇ここにいる君たちがチェンジエージェントだ!
話を3月17日の夜に戻そう。
新中期経営計画の説明を終えた井上社長に対して社員が次々に質問をぶつける。新戦略の有効性や組織の再編などに関する質問が相次ぐ中で、「変革」に対する不安も顔を覗かせる。「現状でも仕事が手いっぱいで変革に取り組む余裕がないし、現場には会社は再教育をやってくれるのかという心配もある」という声が上がると、井上社長は即座にこう答えた。「これまでの経営は社員のがんばりに依存しすぎてきた。業務が過重で変革や学習に費やす時間が足りないなら、その時間を、金を出しても手に入れるのは経営の仕事だと思う」
開始から約2時間半、井上社長は用意された椅子には一度も座ることなく語りつづけた。
変革を目指すインナーコミュニケーションとは、前掲の論考(「インナーブランディングこそ競争力の源泉」)で述べたように社員が自社に対する信頼や誇りを取り戻すインナーブランディングである。その重い仕事を先頭で担うのがトップであることは間違いないが、そのトップを支える現場リーダーもまた不可欠である。この夜、井上氏はその場の社員に向って何度か「チェンジエージェント」になってほしいと訴えた。
アイ・ティ・フロンティアの変革プロジェクトはようやく準備を終えたところである。

