ビジネスの流儀 第5回――団塊世代がほんとうにしたいこと

お墓に持っていけるのは思い出だけ...同世代の友人の友人が口にしたという名言である。持たざる者の負け惜しみのようでもあるが、死は富者にも貧者にも平等であるという真実を簡潔に伝えており、私は気に入っている。

山口文憲さん(1947年生まれ)が最近書いた『団塊ひとりぼっち』(文春新書)からも同じような感慨を得た。300頁を越す本書の中で、著者は団塊世代の世界史的位置付けから説き起こし、オーバーフィフティーズのセックス対策やハゲ隠しの方策まで論じて持ち前のサービス精神を全面展開。結語では、彼らが最後に目指すべきは自身の生きた時代に遡行する感傷術であると述べた。私はこの結語を団塊の魂を成仏させ、二度と化けて出ぬように念じる祈りの言葉と読んだ。世に出回る団塊論の多くはデータ分析の域を出ないが、本書は「知的漫談」を演じながら、団塊の存在論的な深みへ降り立つ稀有な知的探索である。

前回は、団塊世代がもう徒党を組んだり、特定の消費者層を形成することはなく、個々の「オトナの自立」に向けてじわりと歩みだすだろうと書いた。彼らがその宿命である「塊」から脱け出そうとする時に、新しい消費行動が生まれるのではないか、と。

確かに加齢に伴う健康や身体能力の衰えをカバーする「便利な商品」は一定の需要を喚起するだろう。共通体験を想起させる懐メロ系グッズもまだまだ売れるだろう。しかし、次第にくたびれていく身体的な個でなく、精神的な個に目を向ければ、もっと本質的なニーズがある。私はそれを彼らひとりひとりのコミュニケーション欲求、それも世代間のコミュニケーション欲求だと考えている。すなわち、団塊世代が潜ってきた人類史上類を見ない経験を後世に伝えたいと願う伝承欲求だ。

団塊はことあるごとに「俺たちの世代は...」「私たちの時代は...」と口にしてきた。これを彼らのナルシシズムや自己美化と見る向きもあるが、私はそれだけとは思わない。彼らは本能的に伝えなくてはいけないものに気がついていて、その思いにせっつかれてきたのではないか。でも、激しい社会や経済の変化に追われて、表現の技術や適切な機会を得ることは適わなかった。でも、これからなら、そのことが可能になる。

団塊の世代は、戦後日本の成長の一翼を担い、国土の変貌と消費の革命に立ち会ってきた。アメリカニズムにどっぷり浸りながら、そのつどの対抗文化と流行思想をかいくぐり、新しい仕事と暮らしのスタイルをつくってきた。1950年代の都市と田園の風景を記憶に残しながら、1990年代以後のデジタル革命にも身を挺してきた。こんなに振幅の大きな体験は他の世代にはない。

確かに、お墓に持っていけるのは思い出だけだ。センチメンタリズムはその準備にふさわしい。でも、その前に、団塊世代にやってもらわねばならないのは経験の伝承だ。そして、これこそ、彼らが最もやりたいことなのだ。
自分史を執筆するのもいいし、若い人に生産技術を伝えるのもいい。きっと他にもたくさんある。この世代が抱え込んだ膨大な知識をこれからの時代に生かす仕組をつくって差し上げれば、彼らは喜んでやってくれるはずだ。

(フジサンケイビジネスアイ 2006/07/05)