大学で卒業論文を書いていた頃、同じゼミにいた幾つか年上の男がジャック・ラカンの『エクリ』を携えて教室にやってきた。
「これ、むずかしい。なにを言ってるのか、ほとんど分からない」
あれから、30年近く経っているが、たぶん、ラカンの難しさは変わっていないと思う。
ジャック・ラカンは分野で言うと精神分析の臨床家であり、理論家であり、教師である。
この人の全体像を簡単に説明することなどできない。ズルをして、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』に拠れば、「フロイトが切り開いた道をまっすぐに、恐ろしく深く切り下ろしたのがラカンの仕事だと言ってよいと思います」ということなる。
ラカン理論の中で一番有名なのは「鏡像段階論」だろう。
幼児が、鏡の中に自分の姿を見出して、初めて「自己」の存在を知るという(いかにもありそうな)ハナシなのだが、ここに無意識の自己隠蔽や自己偽装を見出すのがいかにもラカンである。
細かいところを全部飛ばして言えばこういうことになる。
...幼児は半ば気づきながら自己をつかめないため、強烈な焦慮にかられているが、鏡像に自己を発見して大いに安堵する。鏡像は実は外部のイメージに過ぎず、決して自己そのものではないのに、彼または彼女は、これこそ自己であると信じ込む。ここに自己の隠蔽と偽装が始まり、人間は生涯にわたって自己ではないものを通してしか自己を知りえず、表現しえないという矛盾を引き受けることになる...
ラカンの思想には、人間は人生を自身のものとして生きることが出来ないという古代的な運命論が含まれているようだ。自分の父を殺害し、母を犯すという予言通りに生を選択してしまうオイディプスの悲劇は、フロイト以来、心の科学のキーストーリーだが、ラカンはこの悲劇の深層を「鏡像段階論」を手がかりに、「恐ろしく深く」追っていった。
ラカン的に言えば、人間は自己の隠蔽・偽装・誤認という失敗からしかスタートできない生き物である。しかも、本来の自己から目を背けた人間は、手に入れた偽の自己を守ろうとやっきになる。だから、コミュニケーションの多くは自己防衛のために発動し、時にきわめて歪んだものになる...
ラカンの言うことが本当なら、コミュニケーションとは「情報の伝達」などというシンプルな行為ではなく、偽の自己が互いに格闘するドラマとなる。
コミュニケーションは、実のところ、なかなか奥深い。
