第10回 キャンプからメランコリーへ――スーザン・ソンタグのスタイル

《連載:コミュニケーション思想の先駆者たち 第1回》

その頃、眉間に皺を寄せた連中は、みんな同じ本を読んで、同じ映画を見ていた。
パヴェーゼ、ヴェーユ、カミュ、レヴィ=ストロース、サルトル、ジュネ、サド、アルトー、N.O.ブラウン、ゴダール、レネ、そしてルカーチ...

ソンタグの『反解釈』(原著1966年)を開くと次々に目に飛び込んでくる作家や思想家の本は、今でもわが家の書棚でひっそりと眠りについている。
ただ、この超弩級の女流批評家の言説に触れたのは1970年代の後半だから、私の60年代的読書の熱気はだいぶ冷めていた。勤めていた出版社の不調や20代後半の焦燥などに振り回されていて、『反解釈』のきらびやかなスタイルはずいぶん遠いもののように思えた。
それでも「《キャンプ》についてのノート」という奇妙な(そして高名な)エッセイを読みながら、60年代を覆っていた「時代の気分」をそれまでとはまったく別の角度から眺めることができた。64年に書かれたこの文章は、今読み返しても20世紀後半の意識の劇を実に的確に捉えている。それは大雑把に言ってしまえば、「センス」というものをめぐる虚実皮膜の闘いのことである。

「キャンプ」は野営のことではない。研究社の辞書を開くと、二番目の語義として「ホモの誇張された女性的な身振り。転じてわざとらしいコトやモノ」とある。
ソンタグは、この誇張やわざとらしさが、きわどいところで美にも醜にも転じる精妙な分水嶺を描き出そうとしたのである。

「《キャンプ》についてのノート」は短い前文と56個の短文で構成されている。
56本の短文のどれもが的確にキャンプのある側面を捉えながら、そのどれもがキャンプの全貌を明らかにしていないという独特なスタイルを貫徹している。例えば、以下のような言い回しで彼女はキャンプをつかまえようとした。

...キャンプは世界を芸術現象として見るひとつのやり方である。ただし、その基準は美ではなく、人工ないし様式化の度合いである...
...キャンプは純真な情熱に由来している。ただし、「ひどすぎる」ためにとても真面目には受け取ってもらえない芸術のことである...
...キャンプは「失敗した真面目さ」、経験を演劇化する感覚のことである...
...キャンプは大衆文化時代におけるダンディズムであり、珍しいものと大量生産でつくられたものを区別しない...

キャンプの淵源は17世紀のマニエリスムのようだが、どうも、その時代から、我々は率直で自然な交流ではもの足りなくなって、世界の作為的・人工的な再現(近代的な芸術や芸能、特にオペラとバレエ)を通して、その共感によって他者とコミュニケーションをはかろうとしてきたらしい。「あれ、むちゃくちゃ良かったね」「あの良さが分かる人はめったにいないわ」てなもんである。
再現された世界は誇張されていてグロテスクでも、そのラディカルな感覚、他にないセンスによって、「あれ、むちゃくちゃ良かったね」のコミュニケーションを支えている(ラディカルでないものが「シック」と呼ばれる)。

このような態度が一種の病(ビョーキ)であることは言うまでもない。しかし、この数世紀、資本主義世界のコミュニケーション文化は、キャンプを競い合うことによって進化を遂げてきたのである。ソンタグはこの密やかないきさつを40年前に暴露していた、ということになる。

私自身は、彼女が後年書いた『土星の徴の下に』と題するエッセイ集に愛着がある(原著1980年)。本の主人公はパサージュの哲学者ベンヤミン、主題はメランコリーである。今度、少し読み返してみて、ソンタグがベンヤミンに注目した理由が初めて分かった。ベンヤミンが取り組んだドイツ悲劇もパリの街も、実は「見世物」というキャンプのカテゴリーのひとつだったのである。