ある企画会社と一緒に仕事をしたことがある。決して規模は大きくなかったが、そこのトップは業界でも著名な方で、多少のカリスマ性も持ち合わせていた。たいへんな勉強家だったし、ユニークな発想もあったから、相談にやってくるクライアントが絶えなかった。しかし、その会社がたいそう稼いでいるかというと、そんなことはないらしく、ナンバー2の営業部長はいつも金策まがいのプロジェクトで駆けずり回っていた。
ある日、打ち合わせが一段落したところで、カリスマ・トップがこんなふうに呟いた。
「どうもウチの連中は子どもっぽくてダメなんだ。目の前に転がってきた仕事にのめりこむだけで、先を見て考えたり、大きく構えて全体の動きをつかんだりしようとしない。まるで、与えられたオモチャに夢中になってしまう子どもみたいなんだよ」
その傾向には私も気づいていたが、どうしてなんだろうと問われて思わず口ごもった。その原因はまぎれもなく彼自身にあったからだ。
どんな組織にもシステムがある。支離滅裂な活動をしているように見えても、実はその支離滅裂な行動を繰り返させているシステムがあるものだ。若いときに、同じタイプの異性に振られ続けるのと同様に、組織にも非生産的な反復を促すシステムが埋め込まれている。「わかっちゃいるけどやめられねえ」と、40数年前に「スーダラ節」の植木等が看破したように、我々は薄々気づいていながら、悪習を絶てない。
件のカリスマ・トップの嘆いたスタッフの「子どもっぽさ」は、実は彼自身が作り出したものであったことは確かだ。「先を見て考えたり、大きく構えて全体の動きをつかんだり」する役目はもっぱらトップに独占されていて、部下はその機会に与かることなく、巣で待つ小鳥のように御託宣が落ちてくるのを待っているだけだった。その上、彼はあらゆる場面で家父長のように振る舞っていたから、社員はみな忠実な息子や娘の役割を演じるしかなかったのである。
経営学者、ピーター・センゲは「ラーニング・オーガニゼーション」というコンセプトに依拠して、企業が生産や販売のみならず、不断の学習のために経営資源を投じるべきことを論じた。ただし、センゲの言う「学習」とは、外にあるものを取り入れるような探索型学習より企業の中に隠れているシステム的=構造的な課題を見つける内省型学習に重きが置かれている。
「われわれは気づかぬ構造によって拘束されているのだ。だからこそ逆に、自分たちの活動の場となっている構造を把握できるようになれば、見えない力から解放され、その力を利用したり変えたりできる第一歩となるだろう」(ピーター・センゲ『最強組織の法則』、守部信之訳)。
学習というものは得てして外部の知識の吸収であると思われている。それは決して間違った観念ではないが、道のなかばである。個人であろうと組織であろうと自身にとって一番痛いところを突っつく勇気がなければ、学びは成就しないものだ。そして、その「痛いところ」とは、例外なく個人や組織のエゴの中枢にある。件のカリスマ・トップを笑える人は少ない。
(フジサンケイビジネスアイ 2006/08/16)
