国会議事堂前を人々が埋め尽くすとき

すでにご承知のように、安保法制をめぐる国会内の論戦が激しさを増すなか、
8月30日には、国会議事堂前から霞が関・日比谷にかけて、10万人を超す
人々が集まりました。労働組合や市民団体の旗もたくさん出ていましたが、
知り合いと声をかけあって来たような人たちも多く見受けられました。

参加者の内訳でいうと、どうみても若い世代よりは、年配の方の方が多い。
残念ながらSEALDsの若者たちは、この国の人口構成通り、少数派です。
団塊世代は母集団が大きいから当然ですが、同じぐらい多いのは70歳を少
し上回る60年安保世代です。

「国会前を埋め尽くす大群衆」は、1960年の5月から6月にかけてこの国
に出現しました。新安保条約の採決が5月19日深夜に強行されると、反安
保闘争は反岸闘争に様相を変え、それまでをはるかに上回る規模の人々が
国会前につめかけました。「民主主義を守れ」を合言葉に、ピークには最大
30万人の人が国会議事堂前を埋め尽くしたと言われています。

私は1960年のセヴンティーンについて、少しまとまった文章を書いたこと
があります★1。浅沼稲次郎を刺した山口二矢、ボクサーのファイティング
原田、小悪魔の異名を取った加賀まりこ、「ウホッホ探検隊」を書いた干刈
あがた。彼らはみな、安保闘争で騒然とした60年に17歳だった人々です。

彼らの共通項は、純粋な理想や理念に憧れ、そこに不純や通俗や常識を
持ち込むのを極端に嫌うところにあったようです。いわば「偽モノ」を強く嫌悪
したのです。この気分は、当時の日活アクション映画にも、国会へ突入した
全学連主流派にも共通しています。

1960年は、戦後社会が「復興期」から「成長期」へ転換した年です。社会
意識が「民主」から「消費」へ大きく舵を切った、その端境期だったのです。
セヴンティーンたちは、この頃から急速に席捲し始めた「豊かさ」という価値
観とそこから派生する”不潔な”観念群を「偽モノ」と見て、強い違和感を
持ったのだと私は考えています。

ここ数か月間、国会議事堂前に参集する人々の抗議行動は、直接的には
安保法案とその実現を推し進める安倍政権に、また間接的には憲法9条に
集約される非戦・平和主義の破壊に対して行われてきました。

ただしその背景には、原発再稼働、普天間基地移設、労働者派遣法改正
など、この間の政策行動に対する強い不信感もあります。
またさらにいえば、日本社会に深く広く浸潤している閉塞感や不能感に対す
る苛立ちや憤りが、安倍晋三という、さほどカリスマを感じさせない政治家に
矢を向けていることも確かです。

最近あまり口にしなくなりましたが、安倍首相の基本戦略は「戦後レジーム
からの脱却」です。「戦後レジーム」とは、「憲法を頂点とした、行政システム、
教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」、
つまり現在のこの国のあり方です。この人の考えていることは、それなりに明確で
一貫した「物語」を構成しています(実体は別として)。

問題は、安倍政権の構想する「ポスト戦後」のストーリーに対置できる「何
か」を誰も明言できていないことでしょう。
1970年代前半に高度成長が終わり、以後バブルをはさみながら、我々は
長い「停滞期」に足を突っ込んだままです。その先に何か別のものがあるのか
どうか、誰もその姿を言い当てていないのです。

「戦後レジームからの脱却」は、従来保守を任じてきた政党が唱える(ある
種の)革新思想です。これに対して革新派があたかも「戦後レジームの維持」
を強調しているように見える逆説を、私たちはどう解けばいいのでしょうか。
ここには安保法制問題を論じながら、上位の「国のあり方」を論じ切れないと
いう困難が覆いかぶさっているように感じます。

若い政治学者の佐藤信は、毎日新聞に「みんな60年安保闘争に引きつけ
すぎではないか」と書いていました★2。一理あります。たしかに安保問題、
強行採決、国会デモというイメージの類似が強く影響しています。

60年安保を回想する必要があるのは、闘争が終息した半年後、「所得倍増計
画」を押し立てた池田自民党が、総選挙で300議席を獲得して大勝したとい
う歴史的事実があるからです。岸からバトンを受けた池田は対決を避けつつ、
「民主」から「消費」への流れをみごとにつかまえ、高度経済成長という大きな
流れを加速することに成功しました。

同様に、2015年もまた大きな転換期にちがいありません。「国会前を埋め尽
くす大群衆」は、その変化を予告しているのではないか――多くの人々が60年
安保に引きつけるのは、そう感じているからでしょう。

ただ60年当時と異なり、「所得倍増」のような誘惑的な政策を打ち出すこと
は不可能です。「成長戦略」は重要ですが、もはやこの国の政策に掲げるの
は不適切かもしれません。それは安保法制が、今の世界の現実とどうもかみ
合っていないのと同様です。

国会議事堂の前を人々が埋め尽くすときとは、私たちが「次の世の中」を考えざ
るをえないときなのです。
この国の政治をもう少し良いものにするために、私たちはあえて「戦後レジーム」の
点検に踏み切らざるをえないのかもしれません。
それも2015年の民主主義に課せられた宿題ではないか。
今、そんなふうに考えています。

【参考文献】
★1 菊地史彦「端境期のセヴンティーン」(『若者の時代』、2015、所収)
★2 「異見を認識し向き合え」、『毎日新聞』、2015年9月11日朝刊