団地で育った

1959年の春、私が小学校に上がる直前に、菊地家はひばりが丘団地に引っ越しました。この団地は東京都北多摩郡保谷町・田無町・東久留米町の3町にまたがって開発・造成された公団住宅で、当時の最大規模の「団地」でした。

小学校・中学校・高校の12年間、大学浪人の1年間と通産13年間にわたって、私はこの団地で暮らしました。まちがいなく人生のいちばんフラジャイルな時期を過ごしたせいか、後に住んだ町とは異なる感情が蘇ります。小川の魚釣りも夏の虫採りも、友人との喧嘩も酸っぱいだけの初恋も、政治への目覚めも文学の初歩も、みんなこの団地に住んでいる間のことです。

是枝裕和監督の最新作『海よりもまだ深く』(5月21日封切り)は、すぐとなりの町、清瀬市の旭が丘団地が舞台です。是枝自身がこの団地に、9歳から28歳までいたそうですから、格別の思いがあったのでしょう。

阿部寛が演じる売れない作家の母親(樹木希林)は、娘や息子が家を出て、夫が亡くなった後もここに住み続けています。その40年に及ぶ団地暮らしの疲労の澱が、樹木の饒舌さえ重いものに変えてしまっている。

団地はかつて戦後日本のモダニズムの象徴でした。我がひばりが丘団地には、結婚したばかりの皇太子と美智子妃が視察にやってきました。私も両親も、団地に住まうことを誇りに感じていた時期があったように思います。

そんな団地が往時の“輝き”を失うのは、あんがい早かったようです。私たちは1972年に団地を出ましたが、その前後から櫛の刃が抜けるように、初期の入居者たちが去っていきました。団地の黄金時代は、60年代のうちに終わっていたのです。

多くの家は近隣に分譲住宅を購入しました(うちは近隣に買えず、東京のさらに西北へ転進)。2DKの賃貸住宅は、冷静に考えてみればいかにも狭小で、大きくなった子供たちに個室を与えられなかったのですね。

『海よりもまだ深く』を含め、最近目白押しの“団地映画”についてはまとめて書きたいと思っています(坂本順治監督の『団地』は6月4日公開)。おそらくこの団地映画現象は、戦後の記憶が本格的な喪失期に入ったことを伝えているのではないかと思うからです。

団地映画と見なされることはありませんが、(そんな見方をせずとも)素晴らしい映画をご紹介します。佐々部清監督の『夕凪の街 桜の国』(2007)です。広島で被爆した家族の三代にわたる物語(原作:こうの史代)の中で、被曝二世の七波(田中麗奈)が少女時代に住んだ団地(東京都練馬区南田中団地)を再訪する場面があるのです。石神井川を挟んで咲き誇る満開の桜越しに、五階建ての建物を見て、思わず涙ぐんでしまいました。

ちなみに一昨年の春、私もひばりが丘団地を42年ぶりに訪れました。当時の住棟はほとんど取り壊され、跡地には立派なマンションが立ち並んでいました。一棟だけ残された「スターハウス」(53号棟)の前には、皇太子夫妻がそこに立ったベランダが移築されています。風景はすっかり変わってしまいました。当時若木だった桜は堂々たる巨木になっていました。