ザ・ピーナッツがいた時代(K’s Letter 2018 No.81)

昔々、「ザ・ピーナッツ」という一卵性双生児のデュオ・グループが人気をさらった時代があります。1961年から64年にかけての数年間がそのピークでしょうか。

伊藤エミ・ユミの瓜二つの姉妹は、画期的なTVヴァラエティショー『シャボン玉ホリデー』を「ハナ肇とクレージーキャッツ」と共に仕切り、「恋のバカンス」や「ウナ・セラ・ディ東京」などの大ヒットを飛ばし、東宝映画『モスラ』で「小美人」という妖精を演じて、文字通り、大人から子どもまですべての日本人の心を鷲づかみにしました。

自分の体験でいえば、『シャボン玉ホリデー』に先立つ『ザ・ヒットパレード』で聴いた「恋のバカンス」の衝撃が忘れられません。「裸で恋をしよう 人魚のように」という刺激的な歌詞に、小学生の私は文字通りぶっとんだのであります。

この歌詞を書いたのは、越路吹雪「愛の賛歌」の訳詞で頭角を現し、ポップスの世界でも仕事を始めたばかりの岩谷時子。作曲はピーナッツのトレーナー役でもあった宮川泰。まだほとんど無名だったこのコンビとピーナッツが、戦後ポップスの最初の黄金期をつくり出したことはまちがいありません。

1959年にデビューし、多くのオリジナル曲とカヴァー曲を歌いまくったピーナッツは、1975年に突然の引退を表明。16年の芸能生活を終了しました。姉のエミさんは同年沢田研二と結婚し、その後離婚。ユミさんは生涯独身を通した模様。引退後は公の場所へ出ることはなく、エミさんは2012年、ユミさんは2016年に他界されました。

ある年齢以上の者にとっては、馴染み深くも懐かしいピーナッツですが、彼女たちについて書かれたものはきわめて少ない。雑誌の記事は所属事務所によってかなり“統制”されているし、本人たちが本音で語った言葉もきわめて限られています。また楽曲についての論評も僅かな例外を除いて、ほとんどありません。

所属していた渡辺プロダクションに関する著作物が何冊かあり、ピーナッツへの言及は必ずなされているものの、その深さはほぼ同じレベルに留まっていて、稀代のポップス・デュオの「本質」へ迫る道筋は見えてきません。

ここでいう「本質」とは、伊藤エミ・ユミ(本名:日出代・月子)という個人の心情や事情のことを指しているのではありません。もちろん歌い手や背後の作り手たちにかかわる事実は重要ですが、私はむしろ、彼女たちの楽曲や存在が、当時の日本人にどのような印象を与え、どのような影響を及ぼしたかを知りたいと思っています。

ピーナッツが1960年代初頭に一世を風靡したことは、もちろん彼女たちの歌唱力と岩谷・宮川のものをはじめとする優れたオリジナル作品の魅力によっていますが、より本質的には、歌の背景をなす世界観がぴたりと時代に寄り沿っていたからです。

ただし、その寄り添い方はやや独特で、見えにくいものであったことも確かです。作り手も歌い手もそのただ中にあって、楽曲がアピールしているメッセージを十全に意識に上せていなかった可能性が高い。彼らはごく自然に、しかももの凄い集中力で歌の方に時代を囲い込んでしまったのです。

私は、「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」による第一次黄金期の世界観を「ホーム・ソング」と呼びます。「家族の戦後体制」(落合恵美子)が確立され、日本的雇用慣行に支えられた標準的なライフコースが出来上がる中で、これらの歌はラブソングの姿を借りながら人々の本心を描き込んでいます。

しかも、そこには早くも「後ろ姿の幸せ」(「ウナ・セラ・ディ東京」)まで姿を見せていた。オリンピックが開催された高度成長期真っ只中の日本で、この歌が歌われ、人々の心に強く残ったという事実に、私は今さらながら驚いています。

恐るべし、ピーナッツ! 昭和歌謡は、今やBS放送の定番番組となりましたが、語られていないことはまだまだたくさんあります。
(2018年2月15日 菊地史彦)

★歌について書くのが好きで、折に触れ長いものや短いものを発表してきましたが、
昨年末に書き上げたザ・ピーナッツ論は今のところ、最大のものです。「WEBRONZA」に連載しました。朝日新聞所蔵の写真(私には初見の逸品!)も掲載されています。